長崎平和文化研究所10年の歩み

平和文化研究の10年と今後の課題
鎌田 定夫 

はじめに

 長崎平和文化研究所が長崎総合科学大学(発足当時は長崎造船大学・翌年校名変更)の付置研究所として発足したのは、1977年12月1日であった。翌年3月「平和文化研究」を創刊、本号で第10集を数える。

 そこでこの10年問の国内外の平和研究、平和文化の動向を概観しながら、日本と長崎の平和研究、平和文化活動の今後の課題について考えてみたい。

1、目本における平和研究の制度化

 1950年代後半から60年代にかけて国際的な平和研究の制度化が進み、1964年12月に「国際平和研究学会」IPRA(InternationalPeaceResearchAssociation)が結成され、1966年には日本平和研究懇談会、1973年9月に日本平和学会が創立されて、日本の平和研究の制度化は学問分野をこえて進展することになる。

 1972年、第9期日本学術会議は平和問題研究連絡委員会(平和研連)を創設し、IPRA等の国際会議への代表派遺を行うなど、平和研究への政策的検討を進め、1974年10月の第66回総会で「我が国における平和研究の促進について」という政府への勧告を行った。

 「ここ十数年来、世界各国では、平和研究(PeaceResearch)すなわち、平和価値観に立脚して、戦争の原因、動機、実態等を探求し恒久平和を確立しうる未来秩序の形成のための諸条件、諸方策等を検討することを基本的任務とする学際的研究が急遼に発達しつつあるが、各国政府もこの研究の振興のため鋭意助成を行っている。
  ところが、我が国では、諸外国に比し平和研究の発達が著しく立ち遅れており、国際的交流、協力も不十分であるが、その主要な原因が平和研究に対する国の助成の欠如にあることは遺憾である。昨年の国際連合第28回総会で日本政府も共同提案者となった平和研究を高く評価する決議が可決され、また平和研究を主要任務とする国連大学の日本設置が決定されたこともあり、この際政府は我が国における平和研究の格段の振興を図る責任があると考える。
  よって、本会議は政府が以下の平和研究のあり方の原則の尊重の上に立って助成の措置を早急に講じるよう勧告する。」

 このような前文につづけて、(1)平和研究のあり方 (2)平和研究促進のための当面の諸措置,という2項目にわたる提案がなされた。
  この勧告で述べられている国際連合の決議というのは、1971年12月の第26回国連総会の決議にもとづく「平和研究の科学的作業に関する決議」(第28回総会、決議3065・1973年12月)のことである。また、前述の2項目をもう少し具体的にみていくと、次のようになる。

 (1)平和研究のあり方-1)平和価値観、特に恵法前文及ぴ第9条の榊申を前提とした科学的、客観的研究であるべきこと。2)研究は自主、民主、公開の原則に即して行われるべきこと。3)学際的及び国際的な協力を特に重視すべきこと。

 (2)平和研究促進のための当面の諸措置

 1)大学における平和研究の促進

 (ア)人文・社会系学部、学際的な総合学部(及び大学院)等、適当な学部(大学院)に平和研究に関する若干の講座・学科目等の新設を図ること。(イ)平和研究を任務とする大学付置の研究所、研究センターに平和研究部門の増設置を図ること。(ウ)教育系学部に平和教育関係の講座を新設すること。(エ)以上に関する国立、公立、私立の大学及び研究機関の創意を積極的に援助すること。(オ)その他。必要な措置を講ずること。

 2)平和研究促進のための助成。(省略)

 以上のように、国連総会決議や日本学術会議総会勧告によって、国内外の平和研究の制度化はいっそう促進されることになる。
  1972年5月、広島平和教育研究所が広島県教職員組合によって設立されるが、これは日本最初の平和教育研究所ヒして、現場の教師とともに広島大学など各大学の研究者をも結集し、意欲的な活動を開始した。
  1974年2月、広島大学では飯島宗一学長(現名古屋大学学長)の下で平和研究所準備会が発足、同年8月には「広島大学平和研究所構想」を発表した。これは1975年度の広島大学概算要求の中に組みこまれ、文部省交渉が行われるが、結局は「学内措置」として出発することになった。(総合科学部社会文化コースの定員増の形で教授、助教授、助手の3名分の定員、1982年より4名定員)

 広島大学平和科学研究センターは、毎年1回のシンポジウムを開催し、1977年より研究紀要「広島平和科学」とニュースレター「平和科学通信」を発行している。
  広島平和教育研究所、広島大学平和科学研究センターの中心メンパーによる共同研究の最初の労作の一つは、1976年7月に刊行された「ヒロシマからの報告一平和・教育・被爆者問題を考える」(労働教育センター刊)であるが、これは同じ時期に出た日本平和学会編の「核時代の平和学」(時事通信社刊)と対をなしている。後者は広島大学で開催された日本平和学会第3回研究大会の報告・討論を母体にしたものであり、共に「ヒロシマ・ナガサキ」を原点とする普遍的な平和学の確立をめざす熱気と意欲をはらんでいた。
  1976年4月、創価大学平和問題研究所が発足、1979年より「創大平和研究」が発行されることになった。

 ところで、日本の大学における平和研究機関の先駆けとなったのは上智大学である。IPRA第1回総会に日本より出席した川田侃、宗像巌両教授を中心に、上智大学国際関係研究所が発足したのは1969年であった。
  さらにその後、1980年に津田塾大学国際関係研究所、1984年広島にYMCA国際平和研究所、1986年に明治学院大学国際平和研究所が、それぞれ設立されて今日に至っている。


2、長崎総合科学大学の沿革と平和文化研究所の創立

 長崎総合科学大学の前身、川南高等造船学校が発足したのは1943年4月、太平洋戦争のさなかであった。創立当初は九州大学その他からの教授陣の支援と各界の期待の中で、定員の30数倍の応募者が全国より集ったと伝えられるが、敗戦を境に川南造船は破産し、学生教も激減していく。旧制高専廃止、新制大学発足に際しての公立移管運動も川南系理事たちの抵抗にあって挫折し、ようやく1950年4月、3年制の長崎造船短期大学へ移行するが、事態はますます悪化し、1958年には在学生わずか160余名、教職員15名、1か月の人件費約20万円、年間予算700万円余、校舎も破産した川南造船の総合事務所の一部に借家住いという、廃校寸前の状況に陥った。

 この危機は、原田正道教授(元東京大学)の着任(1967年)を契機に始まる学園民主化、大学復興運動によって打開されていくが、その中で当時の学校所在地である香焼村よりの助成金50万円、父母(学生)、教職員よりの50万円という復興募金の達成(1959年)、さらに造船工業界からの1.O00万円の助成(1961年)の果たした役割は大きい。

 1962年には香焼島から長崎市東部の現在地への全学移転、付属高校の開設が成功し、3年後の1965年に4年制昇格、1976年には大学院修士課程を設置し、船舶、機械、電気、建築、管理の5学科と住居学および経営学の2コースが置かれ、さらに付置研究所が設立されることになった。

 このような大学復興の精神的原動力とは何であり、どのような理念と方法がそれを可能にしたのか、それを明文化したのが「長崎造船大学創立の由来と建学の精神」である。これは1965年の4年制への昇格を機に、全学的討論をへて作られたものであるが、その「建学の精神」の骨子はこうである。

 く建学の目標>
 ○長崎の街数百年の歴史が生んだ思想と信仰の自由、科学、技術、平和、人類愛の経験と遺産に深く学び、正しく発展させること。

 ○大学は科学的真理の発展擁護のために奉仕するものであること。

 ○科学技術は人類の幸福と平和の発展のために役立てるべきこと。

 ○大学は諸国民との友好のための自他の自主性の尊重の上に立つ科学技術の国際的交流のために尽力すること。

 <学風>
 ○学問、思想、研究の自由を堅く守り、人間の尊厳と自立を尊重し、自治と規律ある進取の気風にみちた民主的学園としてまもり育ててゆくことに一致して努めること。

 このような建学の精神にみちぴかれ、また天与の造船ブーム、経済高成長の波にのって、民主的な私学づくりが進行するが、これは1970年前後に全国に波及した大学改革、学園民主化運動を10年ほど先取りしていたとも言えよう。
  1975年以降の経済危機、造船不況のなかで、船舶工学科や機械工学科への志願者が激減し、長崎造船大学は新たな試練の時を迎えた。

 船舶工学をパネに発展してきた単科工業大学という、構造的脆弱性を克服するための真剣な討議がかわされ、①地域に学び地域に開かれた大学、②現代社会の要請と現代科学の発展に応える、学際的かつ総合的な研究・教育への取り組み、③科学技術の国際交流の拠点としての地歩をきずく、という新しい建学の3目標が確認されることになった。こうして、大学院の開設(1976年)、長崎平和文化研究所、環境科学研究所の設立(1977年)、留学生のための日本語研修課程の設置(1978年)等が進められ、また大学名も「長崎総合科学大学」(1978年7月)と改称されることになる。

 1972年11月に始まる全学教育研究集会は、教授会、教職員組合、学生自治会、付属高校総務会で構成する実行委員会の主催で、教学をめぐる全学シンボジウムとして開催されてきたが、1976年7月の第4回全学シンポジウムは「造船大学の新しい出発-大学院を開設して」という共通テーマで開かれた。
  第1日目の全体集会では、石野治学長の基調講演「造船大学の展望」、佐々木亨名古屋大学教授の講演「技術者養成教育における諸問題」が行われたが、ここで石野学長は前述の大学と地域との結合、学際化・総合化、国際化の方向を打ち出し、非工系学部開設に向けての人文社会科学研究所、環境科学研究所構想を発表し、大きな反響を呼んだ。
  同年12月の教授会では、これを受けて検討を進めてきた共通第一教室(人文社会、外国語系教室)の吉川原主任より「平和文化研究所設立案」が報告され、その骨子は全体の確認を得るが、これに先立って、広島大学平和科学研究センターの永井秀明所員や橘女子大学の新村猛学長を招いての講演、研究集会が行われ、翌1977年4月の教授会では新年度の教学活動の基本方針の中で、「NGO被爆問題国際シンポジウムを本学行事として支援、積極的に参加する」こと、平和文化研究所の設立に向けて努力することを確認した。
  同年9月の教授会は設立準備会(代表・鎌田)を承認、11月18日の教授会で準備会より提出された「設立趣意書」と「研究所規定」を承認、初代所長として古川原教授を選出した。

 こうして、「長崎平和文化研究所」が同年12月1日付でスタートする。しかし、当初は「教授会内の組織」として活動、翌1978年に法人としてもこれらを認めることになった。
  以上の経過からすれば、実質的には1976年後半より始まった一連の平和問題、被爆問題の研究活動、翌77年7月からの「平和文化懇談会」活動の中で。平和文化研究所は胚胎、誕生していったと言える。

 このような平和文化研究所創立の背景には、前にふれたように国連やユネスコ、NGOレベルの核軍縮運動、平和研究、平和教育運動の高まりがあるが、以下この点について補足したい。


3.核軍縮運動・被爆問題研究の高揚

 1975年8月、東京、広島、長崎で開かれた第21回原水爆禁止世界大会は国連事務総長に代表団と報告書を送ることを決めるが、これは同年12月8日のワルトハイム国連事務総長への会見と4項目の要請として実現した。この中の第4項に「国連がイニシアチプをとり、広島・長崎の被爆の実相を全世界にひろめるとともに、核廃絶の世論を喚起すること」があった。この「国民代表団」と国連事務局との懇談会で提起された原爆被爆の実相究明のために、翌76年2月ジュネープで開かれたNG0軍縮特別委員会は「国違主催のもとに、世界保健機関の協力を得て、国際シンボジウムを開催」するように決議した。
  これをさらに前進させるために、前述の「国民代表団」派遺中央実行委員会は、伊東壮、川崎昭一郎ら7名の専門家による作業グループを中心に、「広島・長崎の原爆被書とその後遺」についての国連事務総長への報告書を作成、同年7月に提出した。

  1976年12月、荒木武広島市長と諸谷義武長崎市長は、次の4項目を含む「国際連合に対する要請書」を作成、提出した。①核兵器廃絶とあらゆる武装兵力と兵器の縮少、②核兵器白書の作成、③軍縮委員会への出席、④ユネスコにおける国際理解教育。この②には「ヒロシマ・ナガサキ調査団」の派遣と報告書の作成、③には「広島・長崎の原爆被災実態の物理的・医学的・社会科学的研究」、④には被爆体験継承をめざす資料集作成や教育実践、平和教育国際シンポジウム、原爆被災に関する科学的研究の集大成等が含められ、これに「原爆被害の実態-広島・長崎」という報告書がそえられていた。
  この報告書は、飯島宗一広島大学学長(現名古屋大学学長)及び具島兼三郎長崎大学学長(現長崎平和文化研究所名誉所長)を顧間とする広島・長崎両市の研究者たちによって作成され、前述の「国民代表団」の報告書をさらに深め権威づけたものとして、「NGO被爆問題シンポジウム」(ISDA)での国際科学者調査団の基本的文書として活用された。
  こうして1976年12月にISDA日本準備委員会が発足、翌77年1月、ショーン・マックブライド(IPB会長)、アーサー・ブースの両氏を会長および議長とする国際準備委員会が発足、同年4月中旬より6月中旬にかけて、日本準備委員会による被爆者調査が実施され、さらに7月から8月にかけて、次のような3段階方式の国際シンボジウムが行われた。

  第1段階一国際調査(1977年7月21~30日、東京、広島、長崎)

  第2段階-NGOと研究機関のシンポジウム(7月21日~8月2日、広島)

  第3段階-ラリー(8月5日広島、8月8日長崎)

 長崎準備委員会の発足は1977年3月14日で、長崎の証言の会の秋月辰一郎会長はその発足に当たって、こう発言した。「もうこの一時期をのがしては、われわれは永遠に世界に訴える機会を逸することになるだろう」と。

 こうして発足した長崎準備委員会の調査研究の成果は順爆被害の実相-長崎レポート」(1977年7月25日刊)としてまとめられ、各段階のシンポジウムに紹介され、大きな反響を呼んだ。
  第1段階の国際調査団が長崎で活動したのは7月26日~28日で、第1日目にはロートブラット教授とカウフマン教授が調査団を代表して記者会見した。2日目の専門家会議は長崎大学医学部で開かれ、長崎在住の科学者たちもこれに加わり、さらに①自然科学・医学、②社会科学・被爆者調査・平和教育、③死亡者数の3グループに分かれて作業した。第3日目には、長崎での調査結果のまとめがカウフマン教授、ミニツチキン教授より発表された。
  第2段階のシンポジウムは広島で行われ、①原爆の医学的遺伝的影響・後遺、②原爆の社会的影響、とくに被爆者問題、③情報の普及。宣伝、平和教育・④核兵器の廃絶、放射能からの人類の防護-NGOの役割、という4つの分科会と全体集会で構成されていた。
  長崎準備委員会からは、第1分科会に岡島俊三(長崎大学)、第2分科会に鎌田定夫(長崎総科大学)、第3分科会に古川原(同前)、今田斐男(小学校)の各代表が報告を行った。第3段階の広島ラリーのあと、8月8日、長崎準備委員会主催による長崎コンファレンスが長崎造船大学で開催され、アーサー・ブース議長夫妻、バーバラ・レイノルズ女史らが日本側専門家たちとこれに参加し、さらに同日のタ方、長崎ラリーが長崎市民会館で行われた。

  これら一連の研究調査と国際シンポジウムを推進した長崎準備委員会の中で、長崎大学医学部と長崎造船大学の研究者、1973年より行われてきた長崎の証言の会、日本科学者会議長崎支部その他による「原爆と科学・教育・文化を考える集い」や「原子力船むつ問題を考える長崎県民会議」等に結集した長崎県婦人団体連合会、長崎原爆被災者協議会、長崎県生活協同組合その他の市民団体の果した役割は大きい。
  他方、これらの調査、シンポジウムと並行して進められた原水禁運動統一のための努力が、1977年の広島での原水禁世界大会を成功させ、長崎でも翌年に統一を実現する原動力となっていくが、これは国連レベルでの核軍縮運動の高まりによっても促進された。

 1976年8月、コロンボで開かれた第5回非同盟諸国首脳会議が軍縮問題を主題とする国違特別総会開催を国連に勧告し、これは同年12月の第31回国連総会での「完全軍縮に関する決議」を生みだし、1978年5~6月の第1回国連軍縮特別総会(SSDI)へつながっていく。しかし、この特別総会招集に関する決議案が非同盟諸国を中心とする72か国の共同提案をもとに、コンセンサスで採択されるまでには幾多の困難があり、それはその後にも持続する。

  このような中で、1978年2月ジュネープで開かれたNGO軍縮特別委員会主催の国際軍縮会議へ、日本からも代表団が派遺された。長崎からも、渡辺千恵子さんと共に桜井秀威助教授らが参加し、SSDIへの国際世論結集に寄与しれこの軍縮特別総会における最も注目すべき出来事の一つは、NGOの果した役割であると言われたが、NGOはその準備委員会と特別総会において公式参加を認められ、25名のNGO代表と6名の平和研究機関代表が国連史上はじめて演説を行った。日本国内のNGOの代表として地婦連の田中里子事務局長が演壇に立ったことも、日本のNGO運動に大きな刺激を与えることになった。

 1979年6月、日本平和学会の春季研究大会が沖縄で開催され、長崎から鎌田がこれに参加し、さらに翌80年6月、パリのユネスコ本部で行われた世界軍縮教育会議に、長崎より鎌田ほか3名が出席した。このような国際会議やシンポジウムヘの参加を通して、長崎平和文化研究所は次第に国際的な平和研究と平和教育運動ヘアプローチしていった。


4、長崎平和文化研究所設立の目的と活動

 「平和文化研究」創刊号は、1977年から78年のNGO国際軍縮会議に至る一連の国際シンポジウム、国際会議で行った本研究所員の発表や参加報告を掲載しているが、巻頭には木原博学長の「科学技術を平和と人類の幸福のために」という巻頭言と、古川原所長の「平和文化とその研究」という論文が掲載されている。また、巻末には「長崎平和文化研究所設立趣意書」「長崎平和文化研究所規定」が収録されている。
  古川所長の巻頭論文は、これら二つの文書のもつ意義を深めたもので、まさに「児童観人類学序説」(亜紀書房。1978年)の著者にふさわしい平和文化論である。
  長崎平和文化研究所が単なる「平和研究所」でなく、「平和文化研究所」と命名される必然性を、「平和文化研究」創刊号はみずから物語っているが、創立趣意書と規定からこれを確かめてみると、次のようになる。「この研究所は、人類がかつて経験しなかった恒久的国際平和の創造に資するため、学問、思想、宗教、芸術、科学技術、人間関係、国際理解等、広義の文化現象を本質的に理解し、平和建設という視点で、評価・整理することを目的とする。」(規定第2条)
  「このためには、研究は当然、長崎及び九州の地域文化の解明を緒とし、中心としてすすめられるべきであろう。また、原爆被災都市という歴史的事実の解明をはじめ、長崎および九州という地域のもつ政治、経済、科学、技術、宗教、文化、芸術、国際理解における問題点を、地域住民との協力の下で明らかにしていく。したがって、本研究所の活動は、学内各分野、国内外の広汎な教育者、研究者の協力をあおぐとともに、平和への価値を志向して各方面で活動している市民などの協力、参加をあおぐことになる。」(趣意書2)

  具体的な研究分野としては、次の3部門をあげている。(趣意書3)

  第1部門 平和と科学技術(科学技術史論、工学技術の方法、産業構造・産業史、平和都市計画、原子力開発)

  第2部門 平和の文化と思想(民族・階級と国際平和、平和思想、平和と芸術・文化、平和教育)

  第3部門 原爆被書の実態および核軍備問題(被爆の実相・後遺、被爆者の実情、核軍拡と軍縮、核戦争をめぐる意識調査)

 最近の平和研究の水準からすれば、これらの問願意識はかなりナイーブすぎると思われるかもしれない。だが、本研究所員が国内外の学会その他で発表してきたいくつかの報告や討論は、被爆都市長崎からの問題提起として、今日の平和研究の課題にせまってきた。

 1981年4月25,26日、日本平和学会春季シンボジウムが、長崎総合科学大学で開催され、全国から約250名の研究者が参加した。これは内外の平和研究をリードする第一線の研究者と、長崎および九州の地元研究者、住民運動や市民運動のリーダーたちをまじえた研究交流の重要なチャンスとなり、1979年の沖縄大会に次ぐ九州の平和研究ネットワークづくりに寄与した。ちなみに、そのプログラムの概要はこうである。

  4月25日、第1分科会<原爆体験をめぐって>報告(長岡弘芳、高橋真司、鎌田定夫)

   第2分科会<学校における平和教育>報告(城戸一夫、越田稜、森下弘ほか)

   第3分科会〈平和問題への諸学の接近〉報告(堀江宗生、日比野正巳、入谷敏男)共通論題I〈原爆と
1.平和教育〉報告(田中靖政、服部学、山本満、芝田進午)、討論(具島兼三郎ほか)、司会(岡本三夫、
2.岩松繁俊)

  4月26日、第1分科会〈地域開発と環境問題〉報告(里深文彦、学井純、大西昭)

   第2分科会〈開発の社会的諸問題〉報告(栗野口、安田八十五、大休場千秋ほか)

   第3分科会〈平和・環境問題と住民運動〉玄海原発、志布志湾開発、長崎被爆者・中島川・土呂久公
1.害等の問題に関する九州各地の住民運動関係者の報告(長崎からは谷口稜曄、渡辺千恵子、赤瀬
2.守の3氏)
3.共通論題II〈九州周辺の開発と環境問題〉報告(田中裕一、山下弘文、気賀沢忠夫、川原紀美雄)、討
4.論(原田正純ほか)、司会(鶴見和子、片寄俊秀)

 なお、4月26日夜は市民向けの記念講演会が開かれ、鶴見和子教授が「ナガサキと水俣」と題して講演した。

 このほか、長崎平和文化研究所発足以来、本研究所が実施してきた月例研究会、年1回の平和文化講演会その他の活動については、「長崎平和文化研究所一1977~1986」(桜井秀威、「平和文化研究」第9集)にまとめられており、また各研究所員の学会その他の活動については、例年刊行される「長崎総合科学大学紀要」巻末の「学会活動リスト」に記載されているので、ここでは省略したい。

  ただ、自己点検の意味で、この10年問の「平和文化研究」掲載の論文や翻訳等を前述の3部門別に拾ってみると、次のようになる。

〈第1部門一平和と科学技術〉科学技術、産業・経済、都市計画・原子力開発

    ・・一論文9、書評2。(計11篇)

〈第2部門一平和と文化・思想〉文化・芸術、思想・社会意識、歴史、憲法、教育

  ……論文29、翻訳2。(計31篇)

〈第3部門一原爆被害の実態および核軍備問題〉原爆被害、核意識、軍縮・国際関係、平和運動

……論文38、翻訳12、書評7。(合計57篇)

〈総合〉全部門にかかわるもの……6篇。

以上の分類はかなら筋も厳密ではなく、それぞれ関連しあっている論文も多いるしかし掲載論文の大まかな内容と傾向はわかると思われる。(第9集「激動の八十年」具島兼三郎先生傘寿記念号だけは前記の分類に含めていない寄稿、発言記録その他がある)。以下、若干の吟味をしてみよう。

 A)第1部門(科学技術)11、第2部門(文化・思想)31、第3部門(原爆・軍縮)57。という収録数から見て、第1部門の比重がきわめて低いと言える。工系単科大学としての長崎総合科学大学の構成員全体の平和意識の希薄さと見ることもできるかもしれない。しかし同時に、この第1部門と関連する専門研究については、「長崎総合科学大学紀要」「環境論叢」「地域論叢」「人文社会研究」等の各紀要に毎号その研究成果が発表されており、単純に論評することはできない。
  ここで、前に紹介した本学の「建学の精神」からすれば、「平和文化研究」に自然科学・工学分野からもっと多くの論稿が寄せられてよいという指摘にとどめたい。「平和と科学技術」「平和と開発」というテーマが、平和研究の上で占めている位置の重大さは、改めて述べるまでもない。

 B)第2部門(文化・思想)31篇のうち、教育関係が19篇を占めているが、思想・文化論にかかわる研究の比重をもっと高めるべきであり、憲法・法学、社会学分野の研究、論稿も期待したい。

 C)第3部門(原爆・軍縮)57篇のうち、原爆被害実態関係9、国際関係・核軍縮問題26、平和・核意識9、平和運動12、という内訳になっている。結果から見ると、この第3部門の研究内容は〈原爆問題〉〈国際関係・軍縮問題〉〈平和・核意識、平和運動〉の3つに分けられるが、数から言えば〈国際関係・軍縮問題〉の比重が大きい。これは具島兼三郎、藤田俊彦、立花誠逸、桜井秀威等、この分野の研究者が揃っており、「国際関係論」を開講するなど、本研究所の中心スタッフを構成しているためである。これは「平和文化研究」にとっても最大の強みである。しかし、〈原爆・軍縮〉を同一部門に束ねるのにはいささか無理があり、今後の手直しが必要と思われる。

 D)前記3部門全体にわたる〈総合〉として、平和学あるいは平和文化論が考えられるとしたら、この点でのいっそう意欲的な研究が求められる。これは本研究所が日本と世界の平和研究、地球的規模の政策科学形成の知的ネットワークの一端を担いうるか否か、ということにも関わっている。

  この点でさらに補足すれぱ、広島平和科学研究センターが、「平和学をめぐる理論的な再検討」「平和と開発」「平和研究の文献情報検索、データ・パンク確立」という3つを活動の支柱としているように、本研究所でも内外の平和文化に関する文献情報の蓄枳・整理、とくに長崎に関する資料文献の情報化について、格段の努力が求められよう。

  長崎平和文化研究所の活動としては、日本平和学会やIPRA,APRA(アジア平和研究学会)等への所員の参加のほか、1981年のパルメ委員会主催のシンポジウム、日本学術会議と5大学平和間題研究機関共催の「ラッセルアインシュタイン宣言記念学術シンボジウム」、SSD2への足立浩、高橋真司両所員らの参加・広島・長崎両市主催の各種シンポジウムヘ、全国あるいは地方レベルの市民団体の各種シンポジウムヘの参加があげられるが、ここでは細部については省く。


5、平和文化研究所10年の歩みから

 世界の平和研究が約30年の歴史を刻み、日本でのその制度化も10数年を経過する中で、本文化研究所も創立10周年を迎えつつある。この時点に立って、もういちど最近の平和研究の動向をさぐり、今後の課題について考えてみたい。

 日本平和学会はその設立趣意書の中で、日本の平和研究の立ち遅れを自已批判しながら、次のように述べている。
  「われわれは早急にこのたちおくれを克服し、被爆体験に根ざした戦争被害者としての立場からの普遍的な平和研究を制度化しようと考えている。他方、70年代の日本は今後アジアの小国に対しては、再び加害者の立場に移行する危険性をも示しはじめている。日本平和学会はあくまで戦争被害者としての体験をすてることなく、将来日本が再び戦争加害者になるべきでないという価値にもとづいた科学的、客観的な平和研究を発展させようと考えている。」

  つまり、日本の平和研究が世界最初の原爆被災体験、かつての侵略・加書体験の深い反省、新しい国際秩序確立への悲願をこめた日本国憲法の精神に立って、世界の平和研究に独自の貢献をしようと決意している。と同時に、日本が再びアジア諸国民への加害者の立場に移行する危険性をも示しはじめている」と述べ、「研究は客観的・科学的であるべきであるが、研究の方向づけにおいてけっして道徳的中立性はありえない」と断じている。

  長崎平和文化研究所の設立趣意書は、この視点と立場を、長崎の歴史と風土の中でさらに具体的に論じ、こう述べている。
  「われらの長崎の街は、原爆被災都市である。この原爆体験と憲法の精神とを墓礎として、さらに世界とりわけアジアに果した日本近代の歩みを教訓としつつ、平和文化の研究を行いたい。」

  この10年間の世界の動向をふり返り、今日の世界と日本が直面している現実を見つめるとき、日本と長崎の平和研究の課題はどこまで果たされたと評価できるのだろうか。

 日本平和学会について言えば、例年2回の研究大会といくつかの特別シンポジウム、そして学会誌「平和研究」11巻、「講座・平和学」や「平和研究叢書」等の刊行、650名の会員を擁する世界最大の平和研究組織へと成長する大きな前進がかちとられ、アジア平和研究学会(APRA)でも中心的役割を果たしている。もちろん、平和研究は着実に根づきはじめたと言っても、アジアと世界の現実はますます危機的様相を深め、平和研究は平和構築のための政策科学としても、また核軍拡や構造的暴力、軍国主義復活へ抵抗する批判科学としても、まだ多くの課題に直面していることも事実である。
  たとえぼ、昨年秋のレイキャビクでの米ソ首脳会談で画期的な核軍縮提案が双方から出され、合意の一歩手前まで行かせたものが、核廃絶を求める国際世論の力であり、その世論を冷静な選択の問題として押し上げて行った要因の一つが、科学者たちによる「核の冬」などの最悪事態の予測、地獄図のイメージの提出であったとすれば、それを結果的には挫折に至らしめたものも、レーガン政権のSDI計画への固執であり、科学者の一部にある「核抑止論」や。「勢力均衡論」への追従でもあるだろう。この意味では、平和研究者たちの力量不足も問われねばならない。

 この点で世界最初の被爆国の平和研究者として、私たちは日本の政府に対し、また日本の草の根運動、平和NGOに対して、平和学の立場からどのような学問的影響力を行使し得ているのか、改めて自らの責任を痛感せずにはおれないのである。

 こうして、1973年の日本平和学会および日本学術会議平和研運の発足、1977年の長崎平和文化研究所の発足以後の私たちの研究活動の内実が問われることになる。以下、本研究所が発足に当たって掲げた「設立の条件と目的」を再度ふり返りつつ、今後の課題について述べてみたい。
  「長崎平和文化研究所設立趣意書」は、本研究所発足の条件の第1に、長崎の街が平和文化探求のうえで数多くの遺産と教訓を持っているとして、こう述べている。
  「長崎は広島とともに新しい平和科学・平和文化の探求と創造とをみずからの歴史的使命とする・きわめて重要な街の一つである。長崎の歴史と風土のなかにおかれた本学は・平和文化についての豊かな研究教育の条件をもっているともいえよう。」
  このような視点から、私たちが取り組んだ最初の成果が、『ナガサキ-1945年8月9日』(岩波書店・1984年)の出版である。編集の中心になったのは、具島兼三郎所長であった。
  具島所長は1976年の長崎大学学長時代、広島・長崎両市が国連に提出した原爆被災実態研究報告作成の顧問となってから、この分野の研究に参加し、特に「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店、1979年)の刊行では、飯島宗一、今堀誠二の2氏とともに編集委員として活躍された。「ナガサキ」はこのような具島所長のリーダシップと、1960年代後半から始まった「長崎の証言」運動、「長崎原爆戦災誌」編集事業等の蓄積によってはじめて可能となったと言えよう。
  この分野の仕事としては、このほか「平和事典」(広島平和文化センター編、勁草書房、1985年)、「長崎県大百科事典」(長崎新聞社、1984年)等の編集、執筆などもあげられるが、最近刊行された石田忠教授の「反原爆論集」(1,2巻、未来社、1986年)や「原爆投下と被爆者」(「証言」第18号の特集、1986年)等の提起する諸問題に照らしても、今後さらに緻密な総合的研究が求められている。


 長崎に赴任してからの25年間、この分野の活動にかかわってきた者として言えば本研究所の課題の第1は、長崎原爆の被害の全体像を追究し、「ナガサキ」のもつ今日的意昧を明らかにすることであると考えられる。 
  前にふれた『長崎レポート』(1977)や『広島・長崎の原爆災害』(1979)をこえる、より科学的で説得性のある研究報告となると、私たちだけでは力不足だが、広島、長崎その他の専門家たちの協力を得て、ぜひとも実現すべき課題である。

 本研究所の「設立趣意書」が掲げる平和文化研究所設立条件の第2としては、次のように述べられている。「本学は平和と人類の福祉のための民主的な学園づくりをめざして自らの科学技術を再検討し、創造する努力をはらってきたのである。したがって本学には、総合科学としての平和文化・平和科学を組織的目的意識的に深め発展させる条件が存在する。」

 じつは本研究所設立の動機の一つが、本学の三つの努力目標「学際化・総合化、地域との結合および国際化」という建学構想にそって、非工系学部新設への起爆力ともなることにあった。しかし、この構想は、伝統的工系学部としての本学既存学科の現代化と充実という優先課題の前に、今までのところ実を結ぱず、そのことが本研究所の研究陣の充実その他の努カをも停滞させる結果をもたらしている。
  たとえぱ、1978年秋より開始された本学教養関係教室の「市民文化講座」は1982年まで毎年開催され、5年間で講師は延べ51名、聴講者は延べ2,162名に及び、これらの講演記録を掲載した「人文社会研究」は6号を重ねているが、その後この企画は中断し、1978年から始まった「平和文化講演会」や外国語教室による「市民文化講演会」だけになっている。

 1978年に外国人留学生のための日本語研修課程が設置され、翌1979年には中国ハルピン船舶工程学院との姉妹校提携が始まるなど、大学国際化の努力は今日も続いている。しかし、工系単科大学の教養関係教員を主力とする所員構成では、学際的共同研究の推進といっても、おのずから限界がある。そこで、いかにしてこの主体的条件の制約をのつこえていくか、今後の課題は大きい。

 「趣意書」が掲げる本研究所設立の条件の第3は、研究所の構成と運営に関して、こう述べている。
  「本学の諸分野の研究者は、長崎県内をはじめ、九州、日本各地、さらには国際的規模での研究者相互の交流をもち、共同研究・集団研究を行っている。本研究所を内外の研究者の協力の下に運営することのできる条件は存在する。さらにそれらの研究者は、地域住民、被爆者、市民との交流を行い、研究成果を地域に還元する努力を続けている。地域から学び、地域と共に歩む条件も存在するのである。」
  この点に関しては、前述の第1、第2の条件と課題の中でも言及したが、本研究所発足以来の10年間の経過をふり返ってみると、国際世論に逆行する核軍拡、第3世界を含めた軍事化、人権抑圧や貧富の格差拡大があり、国内でも新たな軍事化、軍国主義復活が進み、円高不況、行革による「国家改造」さえ強行されつつあり、困難はいっそう深まっている。

 しかし本研究所は、今日の平和科学、平和文化研究の精神的原点としての「ヒロシマ・ナガサキ」を体現する被爆地長崎に所在する唯一の平和文化研究所であり、長崎大学医学部原爆資料センターと共に、国際的平和研究の重要なネツトワークの一環をなしている。

 この点では、内外の広汎な「ナガサキ」研究者、被爆者、市民の力に依拠して、本研究所の充実、発展をはかるべき歴史的使命を負わされているといえよう。しかし、今までのところ、そのための努力はまだきわめて不十分であり、今後、より組織的な共同研究、国際交流が推進されねばならない。
  前にふれた本研究所が発足当初設定した三つの研究部門を再検討しつつ、各分野での共同研究を強化していく必要がある。


6、平和研究と平和教育・平和運動

 よく言われるように、平和研究・平和学と平和教育・平和運動とはいわば理論と実践の関係にあり、平和実現のためには、平和研究・平和教育・平和運動は「三位一体」の役割を果たすことが期待されている。

 「平和研究は平和教育の内容を提示し、平和運動にはその方向性を明示する役割を担っている。一方、平和教育と平和運動は現場の声を常に平和研究にフィードバックし、研究機関のおちいりやすい“象牙の塔”化を防ぐことによって、平和の理論を市民の共有財産にできうるわけで、もしそれに成功すれぼ、ヒロシマからの平和のメッセージは、説得力のある、より強固なものになるように思われる。そのためには、まず平和研究、平和教育、平和運動の三者が日常的なコミュニケーションの輸を形成し、協調関係を築きあげることがいまなによりも望まれているのではないか。」(「ヒロシマからの報告」)

  熊田重克氏のこの発言にある「ヒロシマ」は、「ヒロシマ・ナガサキ」と置きかえることもできる。広島・長崎に立地する平和研究所としては、特にこの自覚が重要であろう。

 岡本三夫教授は、「平和学成熟の諸条件」について論じながら、こう述ぺている。
  「平和学が、専門特化に随伴する保守化や動脈硬化などの陥穽を避けつつ、学問として成熟して行くためには、平和学を誕生させた源泉としての平和運動と平和教育へ、たえず立ち戻る必要がある。平和が目標と同時に過程でもあるように、平和学の成熟もまた目標と同時に過程である。それゆえ、平和学はつねに理論と実践、研究と教育の不断の媒介を、その成熟の条件とする。」(「平和学」)

 本研究所のばあい、NGO被爆問題国際シンポジウムの中から生まれ、長崎の被爆者、市民、教師たちとの緊密な結ぴつきを保持してきた実績がある。しかし、平和研究と平和教育、平和運動の三者は、平和実現という共通目標において一致し、相互連関するとしても、相対的には自律する側面も持っている。
  たとえぱ私自身の体験から言うと、長崎の25年間の教員生活の中で私はほとんど休む間もなく平和教育、平和運動に参加してきたが、平和研究、平和科学の探求という点では、主観的熱意にもかかわらず、しばしば経験主義にとどまり、内外のめざましい平和研究の成果に学ぶことは微弱であった。1970年11月の「ヒロシマ会議」において、私ははじめて内外の知的リーダーたちと出会い、1975年には広島・長崎・東京を結ぶ被爆問題研究の成果を『広島・長崎30年の証言』(上下巻、未来社)にまとめた。
  また、1979年には日本平和学会から招かれて沖縄での研究大会に参加し「オキナワ」と「ヒロシマ・ナガサキ」の架橋をはかり、翌80年6月、ユネスコ軍縮教育世界会議へ、同じく12月、横浜でのアジア平和研究国際会議へ出席した。

 こうして私は、ようやく国内外の平和研究のネットワークに参加し、長崎での平和研究、平和教育、平和運動を、よりグローパルな視点でとらえることを学ぴはじめた。しかし、私自身の内部における平和研究や平和学の比重はまだきわめて微弱であることも認めざるを得ない。たとえぱ、1979年の日本平和学会沖縄研究大会が「1980年代沖縄-平和と自立、内的発展の展望」という共通テーマで開かれ、その成果は翌年に「沖縄-平和と自立の展望」(平和研究叢書2)としてまとめられたが、全国および長崎・九州の研究者を結集して1984年に開かれた本学での日本平和学会長崎研究大会の成果は、まだ研究書としてはまとめられていない。

 長崎・九州の歴史的体験と今日の現実をふまえた学際的な共同研究を推進しつつ、その成果をまとめ、地域へ還元するとともに、日本と世界の平和学、平和文化研究に寄与していくことは、本研究所の中心的課題であろう。

 経済高度成長期の「列島改造論」を低成長期に合わせて手直した「第3次全国総合開発計画」は、「定住圏構想」を打ちだし、いわゆる「地方の時代」のかけ声が全国をかけめぐった。しかし、テクノポリス、テレピトアなどと言っても大企業奉仕型の地域開発で、円高不況による産業再編成の動きの中で、その矛盾はますます露呈されてきた。こうした中で最近、4全総による首都圏開発を軸とする、形を変えた「列島改造」が語られたり、行財政の中心、東京首都圏に対する関西文化首都圏の構築という、いわゆる「2眼レフ論」も登場し・福岡の「アジア・太平洋」博、長崎の「旅」博などのイペントも企画されている。また他方では、国鉄の分割・解体。ローカル線廃止、造船、石炭、鉄鋼等の企業整理、産業の空洞化が進行しているのである。

 このような状況の中で、世界の反核平和運動の起点たるべき長崎が、アメリカの核戦略の前進拠点としての対馬、佐世保の対極に留まることはきわめて困難となっている。被爆当時2つの連合軍捕虜の収容所があった川南造船香焼工場、三菱造船幸町工場が前者は三菱重工の新鋭工場として自衛艦を建造し、後者は戦前からの伝統をひきつぐ新鋭魚雷工場として兵器生産を持続している。広島で県、市を含めた全自治体が「核廃絶平和都市宣言」をしているのに、長崎ではいまだに行わず、わずかに郡の9町のみが行っていることの一因もこのような経済不況とそれにつけこむ軍事化、いわゆる「複合安保県」としての制約を克服できないところにあると言えよう。

 しかし、広島県にも呉基地、三菱重工その他の造船や岩国基地があり、基本的な構図は変らないと思われる。そうであれば、長崎に不足しているのは、「平和と自立、内的開発」をめざす平和戦略、軍事化に代る平和都市構想のオールタナティプではなかろうか。こうして、問題は本研究所自身の存在意義が如何にも返ってくるのである。

 日本平和学会の初代会長と広島大学平和研究センター初代所長を勤めた関寛治教授は、「平和研究の国際的ネットワークの創出」という年来の持論に立って、「学術大学国際交流機構」(The International Exchange Organization for Science and University)の創設を提唱し、こう述ぺている。
  「戦略的大学交流創出計画から開始し、大学シンクタンクの国際化とハイテク中心ネットワーク化とを促進し、地球的規模でのテークオフをもたらすための発展的投資を誘発して行く先端的機関として設立する。」

  「留学生10万人交流計画」「研究交流と大学改革」「共同研究・共同学習の場としてのハイテク平和の船の建造」「先端産業投資への組み込み」等、まことに夢に溢れた提案がこれには述べられている。

 1974年11月に「我が国における平和研究の促進について」政府への勧告を行った日本学術会議は、1986年9月、「平和研究機構」設立問題の検討についての中問報告をまとめているが、勧告採択以来の12年問の経過をふり返り、平和研究の一層の活性化と国際的責任を遂行するために、国際的、国内的ネットワークの形成の中核となるべき「総合的な平和機構」創設を提唱している。この報告の中には国内各大学の平和研究所の活動や平和講座等についてふれられ、各平和研究機関からのヒヤリング、平和研究推進についての大型のシンポジウムその他が企画されている。

 また、これと並行して「大学における平和教育」の調査も日本科学者会議や岡本三夫教授らによって進められ、その結果も各方面より注目され、平和研究、平和教育への今後の課題が究明されつつある。


 むすび

 長崎平和文化研究所創立10周年を前に、創立の動機と目的、その後の歩みをふり返りつつ、今後の課題について検討したいというのが本稿の狙いであった。しかし、地域的、全国的なネツトワークヘの取り組みの前に、本研究所の所員自体の共同研究の組織化、学外の研究者を含めた強力な研究スタッフの結集という課題がある。

 本研究所が、広島と共に人類最初の核戦争の犠牲となった長崎に所在し、アジアの大陸と太平洋の国々との密接な結びつきをもつ歴史的な都市に設立されていることを想起すれば、本研究所の取り組むべき課題はきわめて大きいと言えよう。

  最近、日本の科学者たちは「SDIと国家秘密法に反対する」声明を発表し、各地の大学、研究機関で「非核平和宣言」を実現する運動も進められつつある。こうした中で今年2月5日、名古屋大学では構成員(教職員、大学院生、学生)の過半数の批准署名によって「名古屋大学平和憲章」を制定、宣言した。
  3年半の研究討論をへて制定されたこの憲章は、「戦争を目的とする学問研究と教育には従わない」「世界の平和と人類の福祉を志向する学問研究に従い、主体的に学び、平和な社会の建設に貢献する有能な働き手となることをめざす」とうたい、文字通り、「大学平和憲法」と呼ぶにふさわしいものである。

 1973年の国連決議、1974年の日本学術会議勧告は、この憲章の中にみごとにみのっており、これは本学の「建学の精神」、本研究所の「設立趣意書」に示された平和研究・平和教育の理念をさらに徹底的におし進めたものと言えよう。長崎総合科学大学および本研究所もまた、この名古屋大学平和憲章に学んで・みずからの建学の理念と40余年の歩みをきぴしく点検し、新しい建学綱領、「長崎総合科学大学平和憲章」を打ちだすべきときにきていると考える。本稿がそのための呼び水ともなり、また本研究所創立10周年を前に平和と軍縮、人権、開発、環境、教育・文化、自治体と市民運動等をテーマとする総合的な学術シンポジウム、研究論集刊行等の記念事業へのアプローチの一つともなればさいわいである。

〈主な引用、参考文献〉

(1)「平和研究」第1号、日本平和学会、1976、川田侃会長その他の論文。第2号、1977、岡倉古志郎「平和研究の振興に関して日本学術会議が政府に行った勧告」、国際連合第28回総会決議3065号「平和研究の科学的作業に関する決議」(Resolution3065relatingscientificworkonpeaceresearch)

(2)「広島大学平和科学研究センターの歴史と今後の問題」山田浩・「地域と科学者」第8号、日本科学者会議広島支部、1986。

(3)「ヒロシマからの報告-平和・教育・被爆者問題を考える」山田浩・関寛治・永井秀明・石田明・庄野直美編、労働教育センター、1976、「核時代の平和学」日本平和学会編、時事通信社、1976。

(4)「日本における平和学の現状」岡本三夫、「非核自治体通信」第19号・法政大学西田研究室、1986年9月。

(5)「地域に根ざす大学-長崎総合科学大学」鎌田定夫、「IDE現代の高等教育」M215、特集「地方に生きる大学」、民主教育協会、1980年11-12月号。

(6)「長崎平和文化研究所1977~1986」桜井秀威、「平和文化研究」第9集、1986。

(7)「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国運事務総長への報告」核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を要請する国民代表団派遣中央実行委員会、1976。

(8)「核兵器の廃絶と全面軍縮のために」「国際連合に対する要請言」荒木武・詣谷義武。1976。

(9)「被爆の実相と被爆者の実情-1977年NGO被燥問題シンポジウム報告書」日本準備委員会、朝日イブニングニュース社、1978。

(10)「原爆被書の実相-長崎レポート」(長崎原爆被害総合報告書)NGO被爆問題国際シンポジウム長崎準備委員会、1977。

(11)「長崎県民と『むつ』」原子力船「むつ」問題を考える長崎県民会議、1976。

(12)「平和文化研究」創刊号、「平和文化とその研究」古川原、「長崎平和文化研究所設泣趣意書」「長崎平和文化研究所規定」、1978。

(13)「平和研究」第5号、「日本平和学会の研究活動」1979年度春季沖縄研究大会、1980。

(14)「日本学術会議シンポジウム「核戦争の危機と人類の生存」」江口朴郎ほか編、三省堂、1985。

(15)「日本平和学会創立趣意書」、「平和研究」創刊号以来の各号巻頭に掲載。

(16)「ナガサキ-1945年8月9日」長崎総合科学大学長崎平和文化研究所編、岩波ジュニア新書、1984。

(17)「広島・長崎の原爆災害」広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979。

(18)「平和研究の展開」岡本三夫、「平和学-理論と課題」日本平和学会編集委員会、1983。

(19)「沖縄-平和と自立の展望」平和研究叢書2、日本平和学会編、早稲田大学出版部、1980。

(20)「国際的知的交流と大学改革」関寛治、「国際問題研究」第12号、日本国際問題研究協会、1986年9月号

(21)「『平和研究機構』設立問題の検討について」日本学術会議平和問願研究連絡委員会、中問報告、1986.9.26。

(22)「大学における平和教育-アンケート調査にみる現状と方向」日本科学者会議平和・軍縮教育研究委員会、1986.11.10。

(23)「名吉屋大学平和憲章」名古屋大学、1987年2月5日正式発表、全文は「季刊・平和教育」25号、日本平和教育研究協議会編、明治図書、1987年冬号に収録。

(以上 『平和文化研究』第10集より)
 

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