長崎造船大学の創立と発展の誓い 長崎造船大学の出発にあたって、「長崎造船大学創立の由来と建学の精神」が発表された。新しい大学の理想と、そのあるべき姿を成文化した「大学の憲法」である。 他者からあたえられたものではなく、理事、教職員、学生の全員で討議を重ね、創学の困難な闘いの歴史から教訓を汲み取り、叡知を集めて創出した「金科玉条」は、他に先例を見ない。 この日を期して、長崎造船大学は平和の先駆としての誇りをもって、新しい時代を闊歩することになった。 (長崎総合科学大学五十年史編集委員会編『長崎総合科学大学五十年史』 学校法人長崎総合科学大学、1992年、198ページ) 長崎造船大学創立の由来と建学の精神 長崎造船大学の創立にあたり、その由来と建学の精神をしるして、大学発展のいしずえとしたい。 大学の母胎となった長崎造船短期大学およびその前身長崎造船専門学校は昭和十八年以来長崎港外香焼島にあり、千名を越える卒業生は日本産業界の中堅技術者として活躍してきた。しかし、戦中戦後のわが国の変革期を経過するに当って、当時大学経営の任にあった者が、教育研究の機関としての大学の公的性格、自治と民主の理念、科学技術の社会的責任について全く無理解無見識であったため、教授学生および社会各界との対立を深め信頼を失い、ついに大学そのものを荒廃させ、廃校寸前の状態にまでたちいたらせた。 だが、この時にも学生は現実に存在したし、また日本における近代科学文化発祥の地である長崎の街で学びたいと望む青年の希望を消すことはできなかった。学生の熱烈な要望、父兄の強い願いの前には教職員も背を向けるわけにはゆかず、昭和三十二年春、原田正道教授の着任を機に、同教授を中心に教職員学生が一致団結して大学復興の口火を切ったのである。 まず教授会は自らの手で教育研究の責任をになう態勢を整えるとともに、教育を放棄し建物設備を売却するなど大学を私物化して学園を後輩に導いた旧理事者との関係を断ちきり、真に大学の理念と科学技術文化の振興に理解があり、私心のない援助を惜しまぬ社会各界の人士に協力を求めた。 しかし旧理事者の手で極限にまで荒廃され、社会の信頼を失ない、しかも再び大学を私物化しようとする執拗な策動の繰り返されていた当時の状況の下で、教職員学生の手による大学復興の道はけわしく、これに支援の手をさしのべることは非常な勇気と叡知に満ちた洞察なしには不可能なことであった。 この時、ためらうことなく手をさしのべられたのは、原田正道教授の恩師である渡瀬正麿先生およびその心を許し合った友人である北村徳太郎先生であった。両氏は原田教授をはじめとする教職員学生の熱情と、長崎という街に存在する同大学の抱く使命に感じて大学復興への参加を快諾された。渡瀬正麿先生は学長として、北村徳太郎先生は理事会の中心的存在として、また大学四年制昇格委員会の委員長として無償の献身をされることになった。 こうして原田正道教授を理事長に、渡瀬、北村両先生を中心に新しく結集した理事会は、評議会、教職員、学生と一体となって旧い勢力の策動を打ち破り大学建設の茨の道を切り開いて行った。そして、ねばり強い努力の末、ついに卒業生、産業界、学界をはじめ国民各層から新しい学園出発への喜びと信頼が寄せられ、昭和三十五年夏、新しい学園建設の地が長崎市網場町日見ヶ丘に選ばれると日本造船工業会は本館建設資金をおくってその首途を祝福するに到った。 いったい、このような力はどこから生まれて来たのであろうか。 それはまず長崎が、 一、ながい間、海外に向かって開かれた日本唯一の窓として中国、オランダをはじめ世界の動向に対する生き生きとした関心と、世界諸国民に対する偏見のない友愛の心を育てまもってきた街であること、 二、したがってまた、キリシタンの信教の自由をまもる熱烈なたたかいをはじめ、洋学などの新しい学問、すぐれた文化を学ぶために日本全国から数多くの先覚者が集まり来り、頑固な権力の圧迫に抵抗しながら、日本の科学文化の発展のために献身した伝統にいろどられた、日本における近代科学文化と精神の誕生の街であること、 三、しかもまた、第二次大戦の終末において原子爆弾という現代科学技術の悪魔的使用によって壊滅し、深い犠牲の上によみがえった街であること。 以上のことから長崎の街に向かって世界の人々、日本中の人々が望み期待するものに応えることのできる大学が、どうしても必要であるとする内外の人々の熱望と、それへの洞察からくる使命感のもとに心を一つにして結集した理事、教職員、学生の大同団結にこそ、その根源をもつものであった。 建学の精神は、何よりもまずこの根源を泉として生まれ、創学の困難なたたかいのなかで清冽なものとなった。 そしてそれはとくに渡瀬、北村両先生の精神的鼓舞によってはぐくまれた。 教職員学生は渡瀬正麿先生の、生涯をかけてたゆまずに努められた科学技術の真理究明への愛情と、工場においては工員の声、造船設計においては乗組船員の声、大学においては学生の声に謙虚に耳を傾けるという態度に、そして科学技術は人々の幸福にこそ役立てなければならないという信念に深い感銘をうけた。 教職員学生はまた北村徳太郎先生の、敗戦後二十年の日本の運命を切り開く岐路に立って日本の民族的自立と世界諸国民との友好のための道を、先覚者としてあらゆる誹謗障害をもものともせず、身を挺して切り開いてこられた真理のためにはいかなるものも恐れぬ勇気と、思想信仰の自由に対する堅い信念と寛容な態度に深く学んだ。 われわれはいま大学の真の建設、学風と建学の精神の樹立の道への出発にあたり、この渡瀬・北村精神をあらためてかみしめ、学び、これを継承し発展させることを誓うものである。 それはまず、 一、長崎の街数百年の歴史が生んだ思想と信仰の自由、科学、技術、平和、人類愛の経験と遺産に深く学び正しく発展させること、 一、大学は科学的真理の発展と擁護のために奉仕するものであること、 一、科学技術は人類の幸福と平和の発展のために役立てるべきこと、 一、大学は諸国民との友好のため、自他の自主性の尊重の上に立つ科学技術の国際的交流のため尽力すること、 を建学の目標として精進することであり、このような目標を実現するにふさわしい学風として、 一、学問、思想、研究の自由を堅く守り、人間の尊厳と自立を尊重し、自治と規律ある進取の気風にみちみちた民主的学園としてまもり育ててゆくことに一致して努めること、 であると信ずる。 思うに大学の最大の宝、その心からなる誇りは、その大学の建学の精神、学風のなかにこそある。 しかし現代日本の私立大学の存立の条件と環境のなかで、この建学の精神を深め、学風を高めることは決して坦々たる道ではない。それは理事、教職員、学生のそれぞれの立場からの要求や見解を十分交流し、それぞれの立場にたいする深い理解の上にたって共通の見解に達するよう努めること、このような努力を基礎に理事、教職員、学生の心をあわせてのたゆみない精進を重ねることによってのみ築かれるものである。 またわれわれは、われわれだけの力のみでなく、学界、産業界をはじめ国民各層の深い理解と支持を集めることなしには、このことの実現は困難なことも知っている。 いま長崎造船大学の創立にあたり、理事、教職員、学生は一致して以上のことを確認し、この基盤のうえに大学の発展をめざして力をあわせることを誓うものである。 昭和四十年 長崎造船大学 (前掲 『長崎総合科学大学五十年史』、475~201ページ ) |