平和文化研究所設立の趣旨

長崎造船大学(現・長崎総合科学大学)
長崎平和文化研究所設立趣意書

1.設立の主旨
 平和とは何か。人間の長い歴史の中で、平和とは、地域と地域、民族と民族との激しい自己主張の間に、血なまぐさい矢弾の飛びかわない状態という消極的な意味しか持たなかった。従って平和によって育てられる文化とは、生産過剰の上に咲くあだ花としか見られず、次の戦争を準備するための障害として、常に統制の対象となってきた。

 われらは、平和とは人間の精神的・制度的・従って当然物質的構築を含んだ全人類的建設事業であると考えるし、文化とは、地域の隔りや言語の相違をも乗りこえて、相互に理解・交流しあえる、つまりきわめて個性的であるとともに普遍性をもった、一見不可思議な歴史的・空間的生産事業であり、人間的価値の創造行為である、と考える。

 たとえば、中国古代の万里の長城が、歴史的に限定された意味において、大きな平和建設の事業であったように、平和とは、精神的・観念的なものときめつけることのできない、きわめて積極的・創造的・具体的なものなのである。しかも、民族・人種・身分などにおける抑圧と差別がなくならない限り、平和時代の到来とはいえず、現実的な意味では、世界平和ということは、史上かつて存在したことがない。現代は全く暗中模索の形で世界平和をもとめているということができる。

 文化は民族と地域事情とから、全く個性的に発生しながら、不思議にも地域間の距離や、言語の障害をふみこえて、相互に理解し、共感される性質をもっている。文化は“平和の母”といえよう。

 しかし一方、隔たった地域や民族の間に交通や通信などの情報が欠如していれば、理解も共感もありうるはずはなく、しかも文化を育てるべき社会が平和を嫌い、戦争を求める状態にあれば、文化は萎縮し、偏向してしまう。つまり平和を生む文化は、平和によって育てられるものであると考えざるを得ない。

 現代社会と経済の根幹を形成する工業の技術と科学の一見ひたすら人類の繁栄のみを願って鋭意構築してきた諸成果が、常に軍事用・戦争用に悪用されて研究者の良心を苦しめ、名誉を傷つけてきたことは、われらのよく知るところである。しかも戦争や公害問題への反省から、科学者・技術者は、一市民として平和のための諸活動へ参加するだけでは、その社会的責任は、全うされず、自らの研究過程と成果に対する社会的責任こそが問われる現在である。このような現代社会において、平和と文化の研究は、既成の枠をこえた学際的とりくみ、自然科学・技術・人文社会科学などの研究者の共同研究として行わざるを得ない。しかも、学問、技術、思想、芸術、生産、国際理解等、人類の広義の文化活動が均しくその現実を追求する価値として、平和をとらえるならば、まさに平和研究は科学としての客観性の追求と共に、人間の科学として人類史的価値を内在化させているのである。加えてその研究は、国際理解と国際協力の上に成立しうるのであり、国際的視野で平和文化研究は展開されるのである。

 われらの長崎の街は、原爆被災都市である。この原爆体験と憲法の精神とを基礎として、さらには世界、とりわけアジアに果たした日本近代の歩みを教訓としつつ、平和文化の研究を行ないたい。

 本学は創立の由来と建学の精神において、「長崎の街、数百年の歴史が生んだ思想と進行の自由、科学・技術、平和、人類愛の経験と遺産に深く学び、正しく発展させること」をうたっている。われらは自らの科学と技術が生みだすべき平和の姿を絶えず具体的に検討したい。さらに技術を含めた文化が、何によってどの方向に育つべきかを、不断に反省、検討したい。

 「科学技術は人類の幸福と平和の発展のために役立てるべきこと」を願う工科系大学としての本学が、そのあらゆる営為を通じて、平和を追求するための一つの試みが、この長崎平和文化研究所の設立なのである。


2.設立の条件と目的
 本学に長崎平和文化研究所を発足させる条件は充分に存在している。第一に長崎の街には、平和文化を探求するうえで、数多くの遺産と教訓が残されていることである。開港以来、日本の窓口として長崎は中国・東南アジアなどのアジア文化やポルトガル・オランダをはじめとするヨーロッパ文化を受け入れ、中継し、多くの矛盾をはらみつつもその日本的土着化に大きな役割を果たした。明治以降の長崎は造船、軍需、要塞の都市として大陸進出の拠点の一つとなり、日本近代化の基盤を形成しつつ、朝鮮・中国などのアジアに対する行為について多くの歴史的反省を迫られてきた。さらにキリシタンの街といわれる中で宗教的抑圧と抵抗の歴史をきざんできた。

 また何よりも、長崎は広島とともに人類最初の原爆被災都市であり、現代の核戦争の脅威と悲惨とを先取りした街である。同時に原爆地獄の中から立ち上がり、いのち、くらし、生きがいの全面にわたる人間復権と核廃絶のためにたたかいつづけている街である。長崎は広島とともに新しい平和科学・平和文化の探求と創造とをみずからの歴史的使命とする、きわめて重要な街の一つである。長崎の歴史と風土のなかにおかれた本学は、平和文化についての豊かな研究教育条件をもっているといえよう。

 第二に本学は、「創立の由来と建学の精神」にもあるように「平和と人類の幸福に役立つ」科学技術を志向する工科系大学であり、その平和を大学のあらゆる営為を通じて追求してきた。これまで日常の教育活動や講演会、シンポジウムなど、さらには個別的・集団的な研究・創造活動を通じての成果を積んできた。本学は1977年のNGO被爆問題国際シンポジウムの会場として全学をあげてとりくみ、画期的な「長崎レポート」の共同研究に積極的に参加した。このように本学は平和と人類の福祉のための民主的な学園づくりをめざして自らの科学技術を再検討し、想像する努力をはらってきたのである。したがって本学には、総合科学としての平和文化・平和科学を組織的目的意識的に深め発展させる条件が存在する。

 第三に、先の努力をつみかさねてきた本学の諸分野の研究者は、長崎県内をはじめ、九州、日本の各地、さらには国際的規模での研究者相互の交流をもち共同研究・集団研究を行なっている。本研究所を内外の研究者の協力の下に運営することのできる条件は存在する。さらにそれらの研究者は、地域住民、被爆者市民との交流を行ない、研究成果を地域に還元する努力を続けている。地域から学び、地域と共に歩む条件も存在するのである。

 以上みてきた条件をもつ本学で、長崎平和文化研究所を開設する目的と意義は何か。

 本研究所は、人類がかつて経験しなかった恒久的国際平和の創造に資するため、学問、思想、宗教、芸術、科学技術、人間関係、国際理解等、広義の文化現象を本質的に理解し、平和建設という視点で評価、整理する。

第一に、本研究所の活動は、本学の営為をよりいっそう意識的に、平和を追求し発展させることに資するであろう。

第二に、本邦の西端に位置し、規模もむしろ小さい方に属する本学は、その独自性を発揮しなければ、将来その存亡すら憂えなければならないであろう。本研究所の活動は、工学における平和をより意識的に追求することによって、新しい工学発展の一つの視角を本学においてさぐるに役立ちうるであろう。

第三に、本研究所の活動は、工科系大学の条件を活かす努力により、従来の平和研究では十分になされなかった多方面の諸科学の協力をつくり、総合価値たる平和文化の創造・発展に役立ちうるであろう。

 このためには、研究は当然、長崎及び九州の地域文化の解明を緒とし、中心としてすすめられるべきであろう。また原爆被災都市という歴史的事実の解明をはじめ、長崎および九州という地域のもつ政治、経済、科学技術、宗教、文化、芸術、国際理解における問題点を地域住民との協力の下で明らかにしていく。したがって、本研究所の活動は、学内各分野、国内外の広範な教育者、研究者の協力をあおぐとともに、平和への価値を志向して各方面で活動している市民などの協力、参加をあおぐことになる。

 今日、人類の達成した経済・技術・科学の力が全て平和をめざすという価値に用いられることになるならば、人類の未来には、明るい生存の道が開かれるはずである。本学がこの研究所の活動を活かし、全学の営為を平和追求という価値により、いっそう意識的に向けるならば、本学の従ってまたその構成員たるわれらにも、明るい展望が開けるであろう。


3.研究分野 (省略)

(以上  『平和文化研究』創刊号 より)

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